「こだわり」  「ちょっと、藤次郎!…あんたまたやってる!!」  玉珠は両手を腰に当てて、目の前の藤次郎に対して怒った。その玉珠の怒りように、藤 次郎は食事の手を止め、  「なにが?」 と聞いた。玉珠は手に持ったお玉を今にも振り上げんばかりの形相で藤次郎をにらんでい た。  「『なにが?』じゃない!なんて事してるのよ!!」  藤次郎は夕食に出された茶碗に盛られたご飯に味噌汁をかけて、おかずに出された内の 一品の潤目鰯を数本載せて食べ始めたのを見て、玉珠は藤次郎を怒鳴ったのである。  妻の玉珠としては、せっかく夫の藤次郎のために思いを込めて作った食事を侮辱されて いるのである。  藤次郎としては自分では悪気はないと思っている。ここのところ、仕事が忙しくて帰宅 が夜中になることが多く、また現在の仕事場では外食がなかなかできないので、早く空腹 を満たすのと、少しでも睡眠時間を多くとりたいがために、急いで食べる必要があると勝 手に思っていた。  「それじゃ、猫でしょ!」 と、怒鳴る玉珠の形相は凄かった。それに対して藤次郎は残業の疲れからつい、  「なにおぅ、俺のお袋の実家では”犬飯”と言って、犬のえさに出していたぞ」 と、口答えをした。その藤次郎の言葉を受けて、玉珠の怒りはよけいに沸騰し、  「あら、うちの実家では”猫まんま”と行っていたわ」  今度は冷静さを装って、腕組みをして刺々しい口調で言った。  「”猫まんま”って、白飯に削り節をかけた物じゃないの?」  驚いて普通に聞き返す藤次郎に、玉珠は益々怒り心頭に発して、  「…ちがうわよ」 と厳しい口調で言った。  暫く、”猫まんま”と”犬飯”で論争していた二人であるが、  「じゃぁ、そんなにこだわるのなら、毎晩”犬飯”にして食べたらいいんだわ!」 と言い棄てて、玉珠は踵を返して部屋の奥に引っ込んでしまった。それを見て藤次郎も憤 慨し、  「わかったよ!」 と、言った。  …こうして、藤次郎は毎晩夕食に出される味噌汁をご飯にかけて食べ続けた。  玉珠もよせばいいのに、律儀に黙って毎晩のように味噌汁を出し続けた。しかし、その 具は毎晩変えていた。それは、調理師の資格を持つ玉珠の料理人としてのこだわりであっ た。  ある日などは、  「今晩は、ちゃんこ風にしてみようかしら…」 と、玉珠は鰯のつみれを作ろうと、すり鉢で鰯をすり潰しながら、  「…そういえば、アイツ(藤次郎)と再会して最初にデートで行った居酒屋で確か”な めろう”食べたっけ…」 と独り言を言いながら、結構楽しんで料理をしていた。  それは、ある時止まった。  藤次郎はいつものように夜中に帰宅すると、背広の上着を脱ぎ、ネクタイを緩めて食卓 に着くと、黙って玉珠から差し出されたご飯の盛られた茶碗を受け取り、おもむろに汁椀 を持って茶碗に注ごうとした瞬間、藤次郎の手が止まった。  「??」  その動作に玉珠の方が驚いて目を見張った。藤次郎は汁椀の中身を見て茶碗と汁椀を一 旦食卓に置き、汁椀だけを持つと汁椀をすすった。  「…なんで?」  驚いてそれまでの沈黙を破って玉珠は聞いた。その問いに藤次郎は  「蜆のすまし汁のぶっかけご飯なんて見たことも聞いたこともない」 とあっさりと言った。それは、その晩の夕食の準備をしていたとき、玉珠はうっかりと味 噌を切らしているのに気づいた。  「どーしよう…今更買いにいけないし」  暫く悩んでいたが、味噌汁の具の蜆を見て  「まっ、いいかぁ。すまし汁で」 と言って、蜆のすまし汁を作り始めたのであった。  「汁物ならなんでもいいと思ったわ…」 と、しらじらしく言う玉珠に対して、  「”犬飯”は、味噌汁じゃないと駄目なの」  言い訳がましく答える藤次郎に対して、  「ふーーん」 と、見下げる視線で藤次郎を見ていた玉珠は  「じゃあ、今度から味噌汁以外の汁物を出そうかしら…」 と言ったのを聞いて、藤次郎は食卓に手をついて  「…参りました」 と一言謝った。その一言を聞いて、玉珠は深いため息をつくと、  「…よし。これくらいにしといてあげるわ」 と、持ち前の明るい表情をした。その言葉と笑顔を見て藤次郎は「助かった」と思った。  それから、二人で今度は冷静になって”猫まんま”と”犬飯”の事について話をしてい た。”猫まんま”と”犬飯”と言う食べ物の内容や呼び方に地方差があることや、食べ方 の話など…そして、  「…ええー、じゃぁ、炊き込みご飯は駄目なの?」  「うん、”犬飯”は白飯…本来は麦飯なんだけどね…そうじゃないと駄目なんだ」  「なぁーんだぁ…でも、なんでそこまでこだわるの?」  「うん、昔”木枯らし紋次郎”と言う時代劇あったろ?」  「うん知ってる。夜の番組だから、親から『もう寝なさい』と怒られながら見ていたわ」  「うんうん、俺もそうだった」  「…それが?」  「確か、その話の中で紋次郎が自分を殺して名を上げたい追っ手と珍道中していて峠の メシ屋でその追っ手を目の前にして食事をするシーンがあったんだ」  「それで?」  玉珠は思わず身を乗り出してきた。藤次郎は手振りを交えながら話を続けた。  「紋次郎は、一膳飯に漬け物を載せると、いきなり味噌汁をかけて一気にかき込んで食 べてしまい、素早く立ち去っていったんだ。追っ手の方はその時ようやく飯椀を手に持っ たところで唖然として紋次郎を見ていただけと言うシーンが格好良くてさ…」  それを聞いた途端、玉珠は複雑な表情をし、  「…それだけ?」 と聞き返した。  「うん、それだけ」  平然と言う藤次郎の言葉を聞いて、  「バッカみたい!」 と言って、笑い転げた。 藤次郎正秀